真珠米  陸に上がった河童  2015年10月8日(木) 22:30
新米の美味しい季節である。同窓に定年退職後お百姓さんになり、こだわりのお米栽培をしている江尻さん(高専2期生)がいる。彼は5ヘクタールの土地でコシヒカリをつくる、そのお米のブランド名が真珠米である。命名は彼の同期横井氏である。
彼の故郷大内山は、日本一の清流宮川の上流である。宮川は、三重県と奈良県の県境・大台ヶ原山(日出ヶ岳)を源流とし、数々の支流と合流しつつ伊勢湾へ注ぐ延長91kmの大河である。大内山川は宮川最大の支流で天然鮎やアマゴは特に美味で有名である。
彼のこだわりのお米とは、オーガニック(有機栽培)を目指したお米です。肥料は牛糞堆肥をベースにし、土中のEM菌を使用している。EM菌は乳酸菌や酵母など人にも環境にもやさしい微生物たちの共生体の事らしいです。EM菌を使用すると病害虫に強いイネとなり美味しいお米になるそうです。(先日ノーベル医学生理学賞を受賞した大村教授は、土中の微生物が分泌する天然化合物の研究実用化でした)
美味しいお米の判定に食味値がある。近赤外線分析器で4要素(アミロース・タンパク質・水分・脂肪酸)を測定分析し算出する。100点満点で高い数値程美味しいとされており、普通がBランク60〜65点である。良好Aランクは70〜80点それ以上は極めて良好、極上となっている。彼の作るコメは80点以上の極めて良好のランクに評価され賞を取ったこともあるそうです。彼を知る友人は学生時代には考えられなかった研究熱心さであると言う。
 美味しいお米の出来る条件として、ある専門家は「種」、「人」、「自然」の順に重要だと指摘しています。「種」というのは、コシヒカリやあきたこまちといった良食味品種を選ぶことがまず重要ということ。次に重要とされる「人」というのは、土作りや施肥設計(散布する肥料の内容や、量、まく時期などを決めること)などを含む生産者の栽培技術を指します。最後に気候風土や天候条件など「自然」ということになります。
同じ自然の中で同じ銘柄のお米を作っても味が違うのは、生産者も、商売人と全く同じで、その人の姿勢や人柄などが、信じられないほどお米に表れてくるのでしょうか?
美味しいお米を作っても売れなければ経営は成り立たない。彼は、お米栽培は上手いが売るのが下手くそである。彼の真っ黒に日焼けした顔を見ると応援したくなる。同窓の皆さん美味しくて、安全なお米を食べてみませんか?そして彼にエールを送ってみませんか?


 「鳥羽商船90期(高専4期生)同窓会」の報告  S50E 西山 明  2015年10月4日(日) 14:16
卒業後40年を機に、戸田家に航海科、機関科の総勢41名が集まり同窓会
を行いました。紅顔可憐な美少年だった同期生は、再会するなり「お前誰
だった!」「誰だと思う?」とか「すぐに誰々君だと判った。」、「変わ
らないなー」と皆声が少し大きくなり、一瞬にして 飛び跳ね、輝いていたあの頃にタイムスリップしていました。東北、関東、中部、関西の地域から皆よくぞこの母校の地につどってくれました。ありがとう。
何より皆元気で、よくしゃべり、よく飲み、よく笑い、本当に楽しい会に
なりました。5年後の再会を期待して翌朝解散、同期諸君のご安航を祈る。
     幹事:西山 明

参加者敬称略、航海科9名、機関科29名、奥様3名

伊藤 公男 村井 啓志 河野 則夫 谷 敦 山田 睦美 鈴木 三郎 磯部 亮  郡司 恵  富永 邦彦 山本 晴久 阪下 正人 伊藤 文治 佐野 実 中西 哲也 山本 雅拾 関口 亨 岩田 愛一郎 庄司 陽二郎 中村 映 鷲巣 喜代志 多度 博行 岡崎 吉則  杉岡 祥行 西山 明  関山 哲夫   中谷 久司岡田 清実  周藤 荘一   服部 誠 早川 和良 原 衛 小栗 琢磨 竹原 靖志 堀江 茂 本田 光明 角野 充 田中 幸夫 丸島 慶久
  • 同窓会 報告20151003.docx

  •  鳥羽商船校祖 近藤真琴翁と靖国神社大村益次郎像  S38E 全船協会長 岩田 仁  2015年9月2日(水) 13:08
    全船協本部事務所は靖国通りに面し、入居しているビル1階入り口の歩道より遠く靖国神社の大鳥居が街路樹越しに見える。毎年8月15日の終戦記念日には事務所前は街宣車や各種団体のデモ行進で賑やかとなり、神保町の夏の風物詩となっている。
    靖国神社は天気の良い日には昼休みの運動に程よい距離にあり、私にとっては程よい散策コースで時々桜や銀杏の木陰で気分転換している。
     靖国神社を訪れるとすぐに、参道の大鳥居の後ろに明治維新の立役者の一人でもある大村益次郎の立像が目に入る。
    この像は参拝された方はご存じのように高さ5メイートルほどの台座の上に安置されている。像の解説チラシによれは草履ばき、陣羽織袴姿で左手に双眼鏡を持って東京の一角、を睨んでいる姿とのこと。方向は関東地方の最後の戦乱となった幕府側彰義隊討伐の上野の山、現上野公園方面らしい。現在はビルが林立し上野の山は見通せない。下から像を見上げると羽織袴姿で西洋の文明の利器である双眼鏡を持つ姿が幕末の雰囲気を醸しだしている。しかし、真琴翁のポンチ絵には双眼鏡はない。
     さて、鳥羽商船100年史(昭和56年11月発行)を紐解くと近藤真琴が蘭式兵学の師であり、また兵部省での上司でもあった、大村益次郎の不慮の死を悼み靖国神社の境内に銅像を建立すべく奔走したことが記載されている。この像を見上げるたびに若き校祖が建設趣意書を携えて鳩居堂の旧門人たちや新政府要人に掛け合う姿に思いを馳せる。
    同書より大村益次郎と真琴との関係のいくつかを拾い出し略記する。
    安政4年1月(1857年)真琴27歳の年、大阪適塾の塾長を務めた村田蔵六(大村益次郎)が麹町新道に蘭学塾「鳩居堂」を開く。真琴はすぐに入塾を願い許され当時最先端のオランダ式兵学を学ぶ。しかし、5年後の安政9年(1862年)真琴は藩命により鳥羽へ帰藩することなり鳩居堂での学びは5年で終止を打つことになる。一方、益次郎は翌年長州藩の政変により鳩居堂を閉め長州に帰っている。
    真琴が鳩居堂で勉学中の江戸の社会は日米修好条約調印(1859年)、咸臨丸太平洋横断航海(1860年)、桜田門の変(1860年)など日本史に残る大事件が次々に発生し、江戸は新生明治に向かって急変してゆくこととなる。
    維新の争乱が鎮静しつつあった明治2年9月(1869年)師益次郎が京都の宿で暴徒の凶刃に倒れ2ケ月後に落命する事件が発生する。
    真琴は師を忍びその偉業を後世に残すため直ちに活動を開始。同年に建設されたばかりの東京招魂社、後の靖国神社境内に益次郎の立像を設置するため像のポンチ絵と設立趣意書である「故兵部大輔大村公銅像造立広告」を起草し運動を開始する。
    起草文には「公ノ銅像を銅鋳シ、之ヲ靖国神社ノ境内に立テ、以テ公ノ功業、遺徳ヲ翼々不朽ニ垂レ、永ク後人ノ儀表ト為サント欲ス」と記されている。
    真琴本人は当時東京市に蔓延したコレラにり患し明治19年(1886年)9月恩師の像の完成を見ることなく芝新銭座の自宅で逝去している。56歳であった。立像は真琴の死の7年後、明治26年(1893年)彼のポンチ絵とほぼ同じ姿で靖国神社参道に立ち参拝者を迎えている。しかし、像の台座の前にある銅板の建立説明文には近藤真琴の運動の記載はない。

     岡田君の「松阪美術協会展」を訪ねて  S50年機関科卒 西山 明  2015年8月28日(金) 16:39
    私の同期、岡田君が、松阪美術協会展に日本画を出展されたと聞き松阪市文化財センターを訪ね、彼の作品を鑑賞しました。
    岡田君は、三重大学水産学部の練習船勢水丸の機関長を長年務められて来ましたが、今春定年退職されました。彼が船員時代から、絵を趣味にしている事は知っていましたが、これ程の絵を描くようになっていたとは本人には失礼ですが、思いもよりませんでした。
    写真では、その情感が伝わりにくいかもしれませんが、「さりぬ」という題名の絵には、「長い間、船乗りとしてやってきた彼の、満足感や、船から離れる寂しさ、安堵の気持、そして静かな決意」のようなものが、穏やかにしみじみと感じ取れる作品でした。それでは、彼の今後の活躍を期待して、皆さん御機嫌よろしく。

     追伸
    高専4期(S50年卒)の同窓会を戸田家で10月3日行います。現在約40名の参加予定です。
    返信葉書を出し忘れている方は、早急に投函お願いします。

     秋空のドライブ  葛生化石  2015年8月25日(火) 13:05
    草津温泉経由で秋空をドライブしてきました。山の上では気温20度。(^^♪
    最高です。夕方自宅に帰ったら30度。
    でも最近には無い暑さなので、今はエアコンをかけていません。
    ドライブでは沢山の花を見かけました。
    纏めましたので、ご覧あれ(^^)/

  • 秋空のドライブ.docx

  •  同窓会に参加させてください  河野 則夫(機関科)  2015年8月24日(月) 20:36
    10月3日の同窓会に欠席の返事をしていましたが、都合がつきましたので
    出席可能でしたら出席したく、宜しくお願いします。
    小生のメールアドレスは下記です。
    norio.kawano@molgroup.com


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