S40年卒 クラス会 開催  川口  2016年10月21日(金) 19:20
10月20日、我々の故郷である鳥羽の鳥羽シーサイドホテルでクラス会を開催しました。18名が各地から参集し、昔話等、楽しい時間を過ごしました。
2年毎に開催していますが、前回に比べ今回は参加者が大幅に減少し、寂しくなってきました。専攻科を卒業して50年、時の経過を感じます。
今回は3時集合、6時から宴会、8時からカラオケ、その後、部屋でカタフリ。話は尽きません。
近況報告では、個展を開く人、社交ダンスを楽しみにしている人、若い女性の茶飲み友達が出来た人、いつまでも仕事に精を出している人、いろいろです。そうそう、NHKの番組に登場した伊勢湾パイロットの話もありました。
21日の朝、2年後、又、鳥羽で全員が集合しようと約束し、散会しました。
ゴルフに出かける人達、伊勢湾フェリーで移動する人、高野山に出かける人、賢島に行く人、直帰する人、いろいろです。

集合写真。
向かって手前左から 関口、樋口、中西、杉田、中久木、井上、渡辺、山口
後列 川口、片岡、吉倉、平井、丹羽、三村、伊達、前田、鈴木正、山下

毎度、楽しい時間、いい仲間です。

幹事の丹羽に代わって、クラス会の報告をします。  次回幹事 川口

 第3回 社船実習 佐藤要著S36E卒「法螺吹き海月の航跡」から抜粋  松浦肇  2016年10月19日(水) 10:47
昭和37年(1962)年2月5日、私は練習船海王丸を下船した。早速、これから乗船する東京のT海運株式会社に出頭して、社船実習の挨拶をした。
 5年生の商船学校は明治時代から、海運先進国であるイギリス方式で教育されてきた。4年生の練習船海王丸及び造船所での実習が終了、5年生になり民間の商船会社での乗船実習が始まろうとしていたのである。
 2月22日、大阪港でアプレンティス・エンジニア(機関科実習生)として「天山丸(てんざんまる)」に乗船した。将来のエンジニア・オフィサーだから、「アプさん、アプさん」と声を掛けて、皆が親切に扱ってくれた。この船は1万トン積みの船尾機関型貨物船なので、荒天航海になるとよく揺れた。冬の野島崎沖や三陸沖では、低気圧が急激に発達する。さらに低気圧は提灯行列になって北東に進み、ベーリング海で消滅する。
 2月下旬、カナダのバンクーバーへ向かう天山丸は大圏コースを取った。野島崎沖を通過すると、翌日から強風がゴーゴーと吠え、10日も続いて寝不足となった。「アプさん、昔ひどい時化(しけ)でベッドから振り落とされ大腿骨を骨折。全治3ヶ月の療養となった奴がいたよ」と機関長が脅かす。
 大時化(おおしけ)の洗礼を受けて北太平洋を横断。ライオンズ・ゲート・ブリッジを潜(くぐ)り抜けるとバンクーバーである。美しい公園や清潔な街並みに大変感激した。バンクーバーのあと20日ほどかけて、北米西岸諸港を順次南下しながら貨物を揚げてゆく。さらに、北上しながら日本向け貨物を積んでゆく。
 カナダやアメリカは光り輝いていた。港で働く人々は、毎朝キャデラックやビュイック、フォード・マスタングを運転して船へやってくる。彼らの奥さんの乗るセカンドカーは、ダットサンだ。これが第2次大戦の戦勝国の姿である。
 敗戦国日本の港湾労働者は貧しい。手配師が山谷(さんや)や釜ヶ崎(かまがさき)で人夫を駆り集めて、トラックの荷台に乗せてやってくる。やはり勝ち組にならないと惨めである。
 日本と北米西岸航路を2航海して、私の社船実習は終わった。
(この回終わり、次は『下宿「光岳寺』を紹介します。文責:松浦肇S36N卒)

 第2回 航海訓練所「海王丸」32期生 佐藤要著S36E卒「法螺吹き海月の航跡」から抜粋  松浦肇  2016年10月17日(月) 11:29
昭和36(1961)年9月13日、東京竹芝桟橋にて練習船「海王丸」に乗船した。海王丸は、日本丸と並ぶ練習帆船で、「海の貴婦人」という愛称でも知られていた。
 乗船式は船尾甲板の大きな舵輪(だりん)の前に整列して行われた。事務長が実習生の名前を読み上げ、「ハイ」と返事をして1歩前へ進む。「以上、航海訓練所32期生総員94名」と事務長が締めくくる。
 船長は間髪を入れず「海王丸乗船を許可する」と塩辛声で宣言した。さらに、日焼けした黒い顔に目を爛々と光らせ「只今より諸君の命は船長たる私が預かった」と吠えた。「これから秋冬の気象・海象が厳しい北太平洋での訓練が待っている。陸(おか)での弛んだ生活を改めて、緊張して油断のない実習で無事故を貫け。来年2月には一人の落伍者もなく、全員の卒業下船を期待する」と言って、私たち実習生をジロリと睨みつけた。
 私は「とんでもないところに来てしまったなあ」とぼやいたが、このときから心身ともにピリッとなった。
 その後、入渠(にゅうきょ)検査工事(ドックの検査)、登檣(とうしょう)基礎訓練(帆柱に登る訓練)、短期帆走訓練をした。その上、3回も台風の来襲があり荒天対応訓練となったが、かなりの強行日程であった。
 10月12日14時、「日本丸・海王丸合同出港式」が行われた。航海訓練所長と運輸大臣のありがたい訓示があった。その要旨は、机上の学問の応用実習と海を克服できる技術、日本商船隊の士官候補生としての気概を持ち、ハワイでの正々堂々たる態度、国際人としての教養を身につけ将来に備えよなどといったもので、難しいことをたくさん並べられ戸惑った。運輸省船員局長、教育課長他、大勢の官民関係者や家族に見送られ、米国ハワイ島ヒロへ向けて出港した。
 早速、決められた当直日課や、厳しい節水が始まった。昭和30年代の日本は、まだ貧乏で、貸与された作業服や帽子はヨレヨレで、ヘルメットや安全ベルトはない。登檣作業のモットー「片手は自分のために、片手は船のために」を忠実に守って、展帆(てんぱん)、畳帆(じょうはん)を繰り返した。1週間もすると、一端(いっぱし)のウインドジャマー(帆船乗り)の気分になった。
 東経170度を超えると、秋の北太平洋は荒れた。秒速20メートルから25メートルの北風が吹き、波高10メートル以上。帆船特有の船体傾斜は20度から30度となって、甲板上に波浪が打ち込む。落水防止のライフライン(命綱)を張って10ノット以上で航走した。スキー場上級コースの最大傾斜と同程度と考えれば、陸の住民も容易に実感できる。
 決められた日課の他に、自由参加のクラブ活動も忙しい。新聞部は短波放送を傍受して、船内新聞を発行する。B4用紙裏表の2面だが、原紙を鉄筆で切る謄写版印刷で毎日全部屋に配達した。ハワイまでの休みなしの「海王丸新聞社」は、常に社員募集の広告を出している。ある日のトピック欄に「巷では柳原良平氏の『トリスを飲んでハワイへ行こう』というコマーシャルが流行している。我々はラッキーで、海王のマストに登り展帆、畳帆を繰り返し綱引きを手伝うと、3食夜食つきでハワイへ行ける。海王丸新聞社は給料もない。たまには、トリスのハイボールを飲ませてよ」と書いた投稿があった。
 一方、文芸部は広告を出した。「国際性豊かなシーマンの文芸。将来の海洋文学のあり方・・・・」を目指して、創作した作品を懸賞募集した。多忙な訓練航海の余暇に創作した作品は、ハワイ出港後、6名の選考委員により審査された。受賞作品は6編であった。応募作品総数20編は、B5判100枚の和綴じ文芸誌「夜光虫」としてまとめられ、非売品として150部発行された。ちなみに文芸部員3名、無給のボランティア5名、例のごとく謄写版印刷であった。なぜ和綴じの文芸誌にしたのか。その答えは、ワラ半紙100枚を綴じるホッチキスが船になかったからである。
 時は移り、私たちの揺籃(ようらん)であった日本丸は横浜、海王丸は富山にそれぞれ保存され、海事思想普及のため公開されている。したがって現在の日本丸、海王丸は共に2代目の練習帆船である。
 グーグルのユーチューブで練習船海王丸を検索すると、訓練航海の動画を楽しめる。私は後輩たちの伸び伸びした映像を、大変羨ましく、驚きをもって見た。「諸君の命は船長が預かった」と言われ、緊張した時代とは大いに違う。ヘルメットを着用し、作業服に安全ベルトをキリリと締めた展帆・畳帆作業は格好良い。女子学生も差別せず鍛えられて、凛々しく育ってゆく。節水は昔ほどの厳しさを感じない。天気図や新聞を作らなくても、衛星通信を利用すればよい。朝昼夕方の天測を少々手抜きしても、正確な位置情報が得られCRT画面に表示できる。パソコンとプリンターを駆使して、1分間に百文字以上の文章を簡単に作れる時代になった。
 私たちが作った鉄筆謄写版印刷の新聞や文芸誌など、見向きもされないだろう。ログ(測程器)を流して砂時計で速力を計測したなんて、誰も信じないに違いない。
(この回終わり、次は『社船実習』を紹介します。文責:松浦肇S36N卒)

 第1回 鳥羽商船高等学校 佐藤要著S36E卒「法螺吹き海月の航跡」から抜粋  松浦肇  2016年10月17日(月) 11:26
 小学校5年の夏、私は東海汽船の「橘丸(たちばなまる)」に乗船、館山の海洋教室に参加した。北条海岸での海水浴も楽しかったが、客船橘丸の航海が忘れられなかった。中学生になると、商船学校へ行って外国航路の船に乗り、世界を巡りたいと考えるようになった。
 昭和33(1958)年2月、鳥羽商船高等学校の入学試験を受けて合格。4月8日、大脇泰次校長の格調高い入学式の訓示を聞いて、鳥羽商船高等学校本科機関科生徒になった。
 この学校の歴史は、明治14(1881)年に蘭学者近藤真琴により創立された鳥羽商船黌(こう)が始まりで、今年130年になる。私立、町立、県立、官立(運輸省)と変遷して、我々はその後の国立(文部省)第8期生であった。全寮制の学校で、当時としてはとんでもないバンカラな校風であった。
 私は、入学後、たった3日でいやになって逃げ出そうと考えた。次の日曜日に国鉄鳥羽駅へ行った。東京までの運賃930円也。懐に手を入れると600円しかなく、ガッカリして寮に帰ったことを今でもはっきり覚えている。帰りたいが帰れない。5年間の商船学校とのお付き合いがこうして始まった。
 1日の始まりは6時半、3年週番生徒の「起床」のどなり声と1発の号鐘の音で始まる。寮庭での点呼と体操が終わると、寮の寝室、自習室、教室、体育館、端艇(たんてい)、便所などの掃除にかかる。いわゆる、「1年生は奴隷で雑巾がけ」、「2年生は人間で箒を持ち仁王立ちになって監督」、「3年生は神様で何もしない」。1人でやる体育館の雑巾がけで目を回した。7時30分、朝食。8時15分に登校となるが、朝の掃除で疲れ果て、授業中は寝てばかりいた。
 授業科目数は15科目あり、期末試験で60点以下は赤点と称し、年間180点以下の科目が5科目以上あれば無条件で落第となる。1学期末に担任教授は「佐藤は赤点6科目。このままでは落第だから退学したほうがよい。学資が無駄になって、もったいない」と言う。この一言がこたえた。
 帰省すると父が成績表を見て「この赤丸はなんだ」。私は「60点以下の落第点のマークで、3学期合計180点に満たない科目は追試験となる。赤丸5個以上なら追試験も受けられない」と答えた。父は一言「落第したら学校をやめて働け」。
 ところが、2学期になると寮生活にも、チンプンカンプンだった授業にもすっかり慣れて、悟りを開いたのである。つまり、
 1 船は浮いているんだ。そして荷物を積んで運ぶもの。
 2 エンジン、ボイラー、タービンなどは、船を動かす機械。
 3 ボイラーはヤカンと同じ。
などと考えると、目の前が明るく開けたのである。2学期、3学期は苦労したが、180点取ってやっと進級した。
 2年生になると年間250点、全科目平均83点を取った。担任教授は「佐藤はひょとすると、優等生になるぞ。金時計をもらえるかもしれないぞ」と私をおだてる。
 優等生候補に名を連ねて3年生になった。「学問なんてチョロイもんだ。1学期と2学期で点を稼いで、3学期はサボろう」と宣言した。巷では灰色の青春などと言っていたが、私の場合はバラ色の青春であった。こんな調子で、本科3年を卒業した。
 しかし、専攻科へ進んだ私は、4年生、5年生では、優等生どころか ”ただの人” になってしまった。(この回終わり、次は『航海訓練所「海王丸」32期生』を紹介します。文責松浦肇S36N)

 プロコン開催 そのA  伊勢の人  2016年10月9日(日) 20:04
10月9日
わが母校、競技部門、準決勝敗退でした。残念!
決勝戦での優勝はモンゴルティーム、2位は弓削商船。
パズルのピースが形よく埋められているのを期待しましたが・・・・。
じっくり時間を与えて、プログラムのみで如何に早く正確にパズルを完成するか競ったほうがおもしろかったかと思います。プロコンだもの。

自由部門の2ティームの結果はわかりません。
一般に紹介されていた様子を写真で紹介します。

鳥羽商船、主幹校として多くの教職員・学生が頑張ったようです。お疲れさまでした。

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