母校 入学式  伊勢の人  2016年4月5日(火) 19:07
4月5日、母校で入学式がありました。
天気は良かったし、桜も満開で、きっと素晴らしい入学式になったことでしょう。
自分の入学式は遥か昔、そんな時もあったな―――と。
先輩が寮の廊下に桜の枝をたくさん飾って歓迎してくれたことを思い出します。


 三世代紀行・伊東温泉宿夜話/エピローグ編  S44 本科卒 大隅 克義  2016年3月10日(木) 12:56
最終編としまして、伊東温泉宿夜話編を寄稿させて頂きます。メインディッシュは鳥羽の街々懐古と学生時代の回顧録ですが、各人のこれまでに至るヒストリーの一端も箸休みとして付け合わさせていただきます。なお、夜の宴会から部屋飲み話においては、当然ながら先輩お二人の会話談話量の方が多かったのですが、どうしても筆者の思い入れの記述が勝ってしまうことご容赦下さい。

さてと、ずいぶん前から楽しみにしていたお泊りということで、ついに伊東温泉にやって来ました。ですが、いきなりのお宿直行ではつまらないだろう、折角だから物見遊山もなければということで、街中をぶらぶら漫ろ歩きをしながら「東海館」に向かいました。    
東海館→http://itospa.com/history_culture/tokaikan/

駅から土産物店が並ぶ商店街を抜けて7〜8分で着きましたが、おっお〜っ、なかなか風情のある立派な建物。昭和初期に建てられた木造三階建。伊東温泉有数の温泉旅館だったそうですが、今は旅館業は廃業して資料館的施設として保存開放されています。
我々も入場料を支払い、早速見学することといたしました。私の印象に残ったのは、@伊東線開通昭和13年以降、おそらくは戦後に隆盛となったらしいので、伊東は比較的新しい温泉観光地。A三階建ての上に望楼を継ぎ足してある(4階半くらいの感じの高さ位置)。昭和初期には周囲に高い建物は無かったと思われるので、三浦半島から熱海、網代、初島、大島を始めとした伊豆諸島などの相模湾(灘)の絶景が見渡せたはず。いつの世でもお金に余裕のあるむきは「オーシャン・ビューがお好き♪」。

たまたまなのですが、時節柄古いお雛様が大広間に飾ってありました。それではと思い立ち、ジイサマと雛人形のコラボを撮るべく、これもたまたま居合わせた美女子3人組(証明出来る写真はありませんが・・・こう見えてもワタクシ晴れ男でございます・・・)に代わる代わる写真を撮ってもらいました。その中でも最も写りの良い画像を添付しましたのでご参照ください。この地には吊るし雛というのもあって、画像背景をよくよく見ると判ると思います。

その後は早めのお宿入り。早速温泉に浸かり旅の疲れを癒します。私はそれほどの温泉好きでもありませんが、午後〜夜〜朝と三回も入ってしまいました。あ〜気持ち良かったア〜。他のお二方もたぶん同様に複数回入られたと思います。(温泉風呂上り、食事宴会前の画像をご覧あれ)

さてさて、いよいよの夜の宴会でございます。話はあちこちに飛びまして、また私の記憶力の限界も相当下がってきております。ですので、当夜の話題はついては焦点がぼやけるといけないので、以下の様に箇条書き(順不同)にしてみました。

ヤキメシ坂 :
皆さんご存知の寮から鳥羽の街へ抜ける道でございます。元々からの伊勢から鳥羽志摩への街道だったとは思いますが、何故にヤキメシ・ネーミング???
三人とも由来が分かりませんでした。同窓生に限らず、どなたかご存知あればご教示あれ。

スラック(とヤキメシ坂) :
伝統の夜遊び抜け寮行為であります。寮の周りを囲ってあった金網フェンス(当時)を乗り越えて出て行き、同様に乗り越えて帰ってきます。何故正面門扉からこっそり出入りしなかったのか。。。悪事はやっぱりコソコソとするのがお約束だったのか。。。また、私の言では「街まで20分〜30分くらいかかりましたよね」と述べたところ、「いやいや、9時の点検が迫った時に近いほうのパチンコやなら10分15分で戻れた」=走ってかいな?と、おしゃっていた不良先輩の言のほうが正しいようです。

朝日座 :
鳥羽にあった映画館。桟敷席みたいなのがあった記憶が。。。懐かしい〜。。。青木さんによると、もう1軒映画館があったらしい。鳥羽東映とか言ってたかな?

南海/七越/シルバー :
街の洋食レストラン。休日お小遣いに余裕があれば外食をしました。今の価格に直せば1000〜1500円程度の定食を食すのが常でしたが、当時のみんなの(私の)最高の贅沢♪。南海は担任教官の婿入り先ということもあり、何かサービスが付いていた記憶があり私は良く行きました。
ハナシは変わらないようで変わるのですが、七越や南海のことを先輩たちと話していたら、小生が5年生当時、そこでウェイトレスをしていた同年輩の女の子が、来月にはお店を辞めて海女になると聞いた時にとてもショックを受けたのを思い出しました。何がということもないのですが、おそらく彼女に若干の好意を抱いていたのと、それまでに対面したことのない、どうにも変えられない運命宿命みたいなものを目の当たりにした、たじろぎだったのでしょう。彼女の実家は答志島か菅島で、女と生まれたからには家業の海女さんを継いでいくのが決まり事のようでした。当時はなおさらウブだった19歳ボーイは、そんなことを聞いても、結局のところ気の効いたことの一つも言えず、何も伝えられませんでした。携帯電話もメールもラインもフェイスブックも、はたまた家電話すら無かった時代のそれっきりは、本当にそれっきりでした。

海月/なかせこ(中世古?) :
これも休日に出入りした喫茶店。
前者は旅館業が本業の海月の、当時アラサー前くらいで若女将風の方がママさんとして仕切っていました。特にお話して相手をしてもらえるわけではありませんでしたが、私は彼女のファンでありました。時代が移って、池田さんの代の同期会を数年前に海月で催したら、その際に20代らしき若女将が居たそうです。そして後から皆の撮った写真をみたら、多くが彼女とのツーショットだったり、彼女を中心に据えたグループ写真だった由。年齢間隔からしてどうも私がファンだったママさんの孫娘のようです。「少年老い易く学成り難し」=少し意味は違うけど・・・自分も同様ですが・・・歳を取るのは早いけど、やることは変わらず、(学)人格はなかなか成就せず。されど、男のス○○心の泉は枯れずですね(笑)
後者は船舶衛生のエ○医教官(三人ともどうしても名前が思い出せず失礼な表記になってしまいますが・・・どうも佐藤教官という人だったらしい。。。)の奥さん?彼女?が営んでいた喫茶店。今にして思えば妙齢のマダムだったのだろうが、当時の私には誠に失礼な話しずいぶんなオバサンに見えました。鳥羽では広めの店内で、やはりオバサンに見受けられた女店員も何人か居たような記憶が。いまどきであれば、いうところのアラサーはおろかアラフォー・アラヒィフでもお綺麗な一般人が数多く存在していますが、当時は一般的に三十路を過ぎたらかなりオバサンに見られていたと思いますし、そんな年代の方々達にもなにかしらの諦観もあったのだと思います。かなり前に死語となってしまった、オールドミスなんて差別用語もあったくらですからね。そんなこんなでしたが、「なかせこ」は年上女性がいろいろとオマケのサービス品を付けてくれたか、値段的な配慮があったかで、商船学校生にはずいぶん優しかった覚えがあります。

エ○医(船舶衛生の教官で校医?=佐藤教官?) :
知ってる人は知っているのでニックネームの由来説明は避けますが、私は本教官が好きでした。毎年同じ繰言エ○話をしていたのだろうけど、今になって思えば彼の人生哲学の一部だったのかも。まったくの想像ですが、戦争体験がおありのようでしたので、そこら辺りも投影されていたような気がします。

坂井講師 :
柔道の先生。先輩お二人のほうが思い出深いようでした。あと、剣道講師で高橋?さんという方もいたと言ってましたが、私は記憶していません。

モナミ/愛/鍵 :
分かる人は分かる鳥羽の艶街にあったバーの数々。「モナミ(=フランス語で恋人)〜愛の〜鍵を〜・・・」な〜んて、乙な名前揃いだった夜の名店達。A先輩はかなりの体験者、I先輩は少々あり、そして私は残念ながら、まったく足を踏み入れたことがありませんでした。一因となっているのは、私が下戸の類いだったからかも。
Aさんの武勇伝語りによると、愛と鍵のママが鳥羽の夜のお店群の纏め役だったとのこと。そして、Aさんの同級生にはXXのママと懇ろ(ネンゴロ)になった猛者もいたなどと聞かせてもらいました。当時の私のおこちゃま振りと比較してみれば、お伽噺のようなストーリーで、伊東温泉宿夜話に艶やかな華が加わりました。ちなみにI先輩のお話によると、モナミの2階はヌード劇場だったそうです。場所はともかくその存在自体は確かに記憶にございます(苦笑)。
<追記>
猛者さんのお顔を思い浮かべるに、二十歳前後のではなく渋い中年男性顔が浮かんできてしまうのです。そして書き終えてから突然思い出しました。猛者先輩とは仕事関係の打合せで、偶然にも15年ほど前にお会いしたのです。たまたま私と同業の会社にお勤めでしたのでそのような邂逅があり、その時にはきちんとした会社の管理職をされていました。しかるに、そんなお伽噺の主人公だったモナムールの奔放さは、押さえの効いた男の渋さに変貌をとげていました。

八千露(やちろ?) :
お好み焼きと焼きそば?のお店。前述のバー群とは違ってこちらには何回か訪れた覚えあり。

まるひで・アサヒ他 :
街にあったパチンコホール2店。他にも2店あったそうです。私は門外漢だったので、この方面は池田先輩が一番詳しそうでした。

まさや・いろは
艶街近くにあった旅館。昨年末に鳥羽を訪れた際にその辺りに行ってみましたが、痕跡はまったくありませんでした。当夜の話しでは、なぜなのかは分からずじまいだったけど、学校との縁が深く、受験時入学時に泊まられた同窓生も数多くいるはず。鳥羽ビューホテルが「まさや」の発展形と同級生の誰かが言ってたけど本当かな?

旧寮/新校舎 :
昭和41年4月に小生入学した時点では前者はなく、新校舎にて授業を受けました。2年前に入学した青木さんによれば旧寮建屋というのが残存していて、旧校舎取り壊しから新校舎完成までの端境期はそこで授業を受けたとのこと。1年前の池田さんの代も一時は旧寮での授業だったそうです。そこには伊勢湾台風の爪跡痕跡もあり、ここまで浸水したのだという色変わり部分もあったとか。今にも倒れそうで、台風到来時には皆でロープを引っ張って支えたなんて逸話を青木さんは話していましたが、ホンマでっかいな。
古い古いハナシの新校舎、私達は(新)校舎などど言ってますが、当時からすでに50年以上も経っていますので、同時期に建てられた商船学校初の体育館も含めて今でもあるのかいな???

みなと・港にオ○○あり :
当夜のお話の全容は、全面的に割愛させていただきます。

各人奥さんとの馴れ初め :
個人情報を多々含みますので非公開が望ましいのですが、それでは面白くないので当夜のお話の一部だけでもご披露させていただきます。
Aさん→5年生時に伊勢のヒトと知り合われて今に至っているとのこと。名付けて「出会いはおかげ参り」。I先輩と同一意見だったのは、それは・それはア・・・夢のようなアップ帰り(5年生)生活。いまになって聞いていても羨ましい限り。ちなみに私の5年生時は、他の同級生とは違い就職先の関係で支度金支給なども無く、女っけも無しで悶々とした日々を過ごしていました。
Iさん→当時中核6社といわれた大手船会社の一つに就職。そして何年かの海上勤務の後の、東京本社での陸上勤務の際に職場で知り合われた。本社の場所は少し違うと思うが、キャッチコピーは「丸の内オフィス(ラブ)・ストーリー」。その何年か後に一世を風びした東京ラブストーリーの先駆けみたい♪。しかしながら、ワタクシ独自の考察では・・・奥さんのお父さんは千葉の東京湾岸で江戸前漁師をされていたとのこと。沿岸の埋立てで、やむなく廃業されたそうですが、埋立てられるまでは家の前が浜辺だった由。他方Iさんの実家から海(清水港村松岸壁)までの直線距離も700bあまり。こちらも埋め立てられる前まではほんの数百b先が海岸線だったのでは。ということで、お互いの育ち場所の塩梅(潮の香り)が引き寄せあったのかも。
O君→港湾会社に就職し20代を名古屋で過ごした。今では観光地みたいになっているガーデン埠頭前の海岸通近くに自身の職場があり、カミサンも同じ通りの船舶関係の会社勤めをしていて、仕事を通じて知り合う。ですのでこちらは「NGO海岸通物語」。


《エピローグ》

以上のお話以外にも懐古話しは多々あり、また我々の今に至るまでマイストリーとか、現在からこれからのこと(もちろん・・・病気(介護)/年金/孫の3点セット話もありました。。。)、全てを振り返っておりますと、エンドレス・千夜一夜物語ともなってしまいますので、この辺りで今回の「三世代紀行」を閉めさせていただきます。

私共三名の個人に関わる記述については、その年代数年間以外の同窓生諸氏にはピンとこないでしょうが、何卒ご容赦のほどをお願い申し上げます。一方で、何らかのカタチで三名の何れかでもご存知であればご興味を持っていただけたと思っています。
また何かイベント事があれば、なるべく楽しいお話を中心に投稿致します。

 三世代紀行・河津桜遊行編  S44 本科卒 大隅 克義  2016年3月7日(月) 11:50
さて、いよいよ我ら学友三世代の早春伊豆ツアーの日がやってきました。
千葉の池田さんは総武快速線〜東海道線と乗り継ぎ、横浜の大隅は横浜駅で同じ電車のグリーン車で落ち合う手はず。予定通りに乗り込んだのですが、なんと満席でやっとのことで池田さんの隣席に滑り込んだ次第です。土日休日で満席になっているのは初めてでしたので、ちょっとびっくり。
その後、熱海で一度降りて青木さんと落ち合い、河津に向かう下田行き「特急・踊り子号」に乗車してみたら指定席も満席です。自由席だと立っていた乗客もいたかもしれません。早春とはいえまだまだ薄ら寒いのに、随分の混雑具合だなとは思っていましたが、のちにその混み具合に更に驚かされることになろうとは。。。。
踊り子号は伊東まではJR伊東線、その先の下田までは伊豆急行線となります。どちらも単線なので特急といえども、のんびりゆっくりの走り。比較的最近開業の伊豆急でもおそらくは50〜60年以上経っているので、当時の土木技術からなのか強引にまっすぐな線路敷設ではなく、結構海岸線に沿ってクネクネと走る感じ。ですので、昨年末の同期会の際に訪れた賢島までの近鉄鳥羽志摩線よりは景色も楽しめます。ちなみに海側の席から埋まっていきますが、今回キャンセル直後だったのか運良く海側の座席。途中の稲取付近では「ここが絶景ポイント♪大島も見えます。お楽しみくださ〜い♪」的な車内放送も流れます。早速ワタクシめもスマホで撮ってみました。(添付の海岸写真ご参照ください。)


そうこうしているうち、1時間強もすると終点下田の一つ手前駅・河津に到着です。そしたらなんと、乗り合わせた満席車両の乗客の9割方は降りてしまいました。また、車窓から見えた途中の道路も渋滞していました。そして高架になっているホーム下の改札口から出て、川沿いの桜並木までの道すがらは、アメージング、びっくりポン、マジやば〜い、もの凄い人波。露店・出店も盛況を極めていて、後で確認したら200店舗あまりもあるとか。都会はおろか地方都市からも相当離れているというのに、この地はとても人気があるようです。(何でもありの出店はこちら→http://www.beachside-log.com/sakura.html
それにしても、この桜を50年?ほど前に植えて並木道を作った方は、後にこの地に多大な貢献をすることとなった大恩人。そんなつもりで植え育てたわけではないのでしょうが、桜はこの地のビッグビジネス。経済波及効果は計り知れないのでは。こちらに習って最近では各地に河津桜を移植して、町おこし村おこしの一助にしようとしているみたいです。
 
桜並木は弓形に湾曲して流れている河津川に沿って3〜4`も続いていて、とっても綺麗。もう少し人が少なければもっと情緒があるかも。人波が途切れたところで、我ら鳥羽商船シックスティス=60‘s(1960年代に在学して、年齢も60歳代)三人組も写真を撮りました。
帰りの大混雑が予想されたので、到着した時にとりあえず空のあった特急指定席券を購入した関係で3時間弱の桜見物。ほとんど休憩なしで往復約7`を歩いたのでかなりのお疲れ。お弁当を食べながら万歩計を見たら1万歩強を記録していました。

今回は学校・寮・同窓会等とは直接関係のない内容の投稿になってしまいました。次回@伊東温泉宿泊編(最終章)では、当夜に話された鳥羽伊勢における学生時代の昔語りやら、今に続く思い出バナシの数々を投稿しますので悪しからず。

 交流のお願い  保護者  2016年3月7日(月) 11:16
鳥羽商船高専のOBの方々
是非とも、今の現役寮生の学生たちとの
交流をお願いいたします。

ここ最近、鳥羽商船高専の学生の皆さんも
海技士1級2級の取得者を多く排出し
他の学科もコンテスト入賞等活躍が目覚しいです。

そんな、学生の皆さんと交流していただきたいです。
よろしくお願いします。

 学友制回顧(返信・御礼)  S44 本科卒 大隅 克義  2016年3月7日(月) 11:28
大窪さん

その後の学友制度の推移ご説明ありがとうございます。古い話ではありましたが、少なくとも何十年かは、良き伝統が私よりかなりの先輩諸氏から後輩諸氏に受け継がれていたのだということが判り何か安心しました。また、静岡県という私と同じ出身地でもある御前崎地区において、当該制度の良き伝統の継承が、現在でも息づいていることに感銘を受けました。

『学生規心(至誠一貫・率先敢闘・和心一致・責任完遂)、船乗りのモットー(船乗りはスマートで目先が利いて几帳面、これぞ船乗り)』
白菊寮から卒業して以来、一度も口にしたことはありませんが、私も今でも諳んじることが出来ます。15歳の少年だったワタシの心の奥底の壁に、深く刻み込まれた記憶の刻印となったのは確かのようです。

しかしながら、その後の人生においてはそのようには殆ど実践出来ず、まさしく「光陰矢の如し」で人生のラストランに入っています。けれども、運良くラストシーズンまで迎えたわけですから、率先敢闘・和親一致くらいはチャレンジしてみます。

仔細なことで恐縮ながら、「寮生活で、3年生=神様/2年生=普通/1年生=奴隷と揶揄」と記述しましたが、「2年生=人間」が正しかったようです。もちろん、これは極端な揶揄であり、1年生であっても、それなりに楽しい寮生活を送っていました。

 学友制懐古  大窪 斎  2016年2月28日(日) 23:05
大隅さん

 学友制度についてのご寄稿、感慨深く拝見いたしました。私が入学した昭和49年当時も、非公認のその制度は寮生のあいだに深く侵透しておりました。
 私がお世話になった「学友さん」も出身中学(静岡県御前崎中)の先輩が就いてくださり、寮生活にあたっての様々な指導をいただき、若干15歳で親元から遠く離れ、団体生活を始める身にとって心から頼れる存在でした。入寮と同時に手渡された紙切れには、@上級生に対する自己紹介の台詞、A学生規心(至誠一貫・率先敢闘・和心一致・責任完遂)、B船乗りのモットー(船乗りはスマートで目先が利いて几帳面、これぞ船乗り)、C鳥羽商船校創設者・創立年月日 などがメモ書きされていて、この直後に行われる怖い3年生との対面式(大勢の上級生に囲まれるなか直立不動で行う自己紹介)や、“夜廻り”と称される深夜の歓迎儀式に備えて必死に諳んじたことが想い起されました。
 さて、その学友制度ですが、我々の後輩にも引き継がれていったことは確かです。ただ、我々が2年生に進級する頃に寮制改革があり、新入生の相談役として指導学生(4年生のなかから任命)が置かれることになり、学友制度は本来の意味を失っていったと思われます。
 名ばかりとなった学友制度ではありますが、私自身は3学年後輩(ひ孫)まで家系譜を辿ることができます。1年後輩には出身中学からの入学者がなかったのですが、その後は同窓が続き、孫、ひ孫と御前崎出身者で家系を引き継いでいただけました。

 余談ではありますが……
 今や上の学友さん、孫、ひ孫とも地元に落着き生計を立てておりますが、卒業後の交遊は殆どありませんでした。ところが7年ほど前、上の学友さん(増田さん)とひ孫(森田君)と私の3人が中学のPTA役員を拝命することになり、鳥羽商船学友とその子息たち...の偶然の巡り会わせに驚くとともに、愉しく役員任期を全うすることができました。ちなみにPTA会長は森田君が務め、素晴らしいリーダーシップで運営していただきました。

 三世代紀行:プロローグ  大隅 克義  2016年2月25日(木) 8:44
同窓生皆さんの学生時代には、学友制度というものはありましたでしょうか。私が鳥羽商船に入学した昭和41年当時はそのような制度がありました。ただし、学校公認かというと定かではなく、学校側は黙認していただけなのかもしれません。しかしながら、出身地住所が記された名簿を寮生は入手していたのですから、少なくとも暗黙の了解と協力はあったと思われます。ただし、これからお話することは全寮制ありきの事柄だと思われますので、近年のように自宅通学、もしかしたら下宿も認められているような状況では起こり得ないことかもしれません。

さて、新1年生が入寮して暫くしますと2年生が現れ、「俺がお前の学友となった。これからは俺がお前の面倒見る」と宣言されます。
彼ら2年生は1年生の名簿をみて出身地の近い者を選ぶのが通常です。私の場合は県外遠隔地静岡県清水市(現:静岡市清水区)からの入学者にもかかわらず、小学校/中学校で1学年上だった池田俊夫さんが名乗り出てくれました。同じ中学から鳥羽商船に進学した先輩がいることは知り得ていましたが、団塊の世代末期でも1学年で9〜10クラスある学校でしたので、本校に入学するまでお付合いはなく、話したこともありませんでした。

学友先輩は後輩にいろんなことを教えてくれました。どこの世界でもおのずと決まり事がありますが、特に寮生活での注意点レクチャーにはとても助けられます。朝起きてからの点検のやり方。食事の際には当番先輩から「かかれ〜」の号令が掛けられるまでは食べ始めてはいけない。先輩の顔と名前はイの一番に覚えて、特に外出時に会った時に失礼のないようにする(ちなみに制服姿の下級生は敬礼をするが、先輩はせいぜい頷くだけ)。夜9時には巡検があるので部屋の前に整列して宿直教官の検閲をうけること。トイレ掃除、浴場清掃、カッター掃除の仕方と注意点など等。
それらの数々は一応の戦後民主主義学校教育と、親元でぬくぬくと過ごしてきた15歳の少年にはかなり厳しい生活環境の変化でした。まあ、その後の人生ではそれ以上の苦しいことや、理不尽なことがいくらでも降りかかってきますので、トレーニングとしては丁度良かったのかもしれません。
もちろん、先輩も人夫々ですので、親身に教えてくれた者、ほったらかしの者もいたでしょうが、池田さんからは色んなことを教えてもらい、また、鳥羽の街にも連れて行ってもらって食事をご馳走になったりもしました。入学間もなくであらゆる面で心細い私には、本当に心強く感じられたのを思い出します。

16歳の2年生が15歳の1年生にいわゆるシキタリを教えるのですが、普通に考えればそれまでの人格形成の期間や人生経験にそれほどの差はないはずです。しかしながら、特に新1年生と2年生における商船学校学生寮での1年違いは、感覚的にはその後の20代30代での5年(歳)ほどの違いがあったように感じられました。さらに言えば3年生は7〜8年違い、アップ(apprentice=士官実習生)帰りで近隣に下宿して卒業までの半年間を通学していた5年生などは、地方出身の15歳の少年の目からは完全にオッサンに見えました。ちなみに寮生活は3年生までですが、3年生=神様/2年生=普通/1年生=奴隷と揶揄されていました。

そして、1年上はただ単に「上の学友」は誰それ、「下の学友」は誰それ、と呼称されていましたが、1学年隔てた1年生から見た3年生の学友を「おじいさん」と称していました。私のおじいさんは青木勇さんという方です。青木さんは神奈川県真鶴町の出身ですが、下の年代では隣県清水出身の池田さんが比較的近かったので学友をかって出たそうです。首都圏には近いものの、真鶴という漁師町の網元のご子息ということで、とても男気のある方でした。それに甘えて私が2年生のお正月前には、こちらからご実家に押しかけたふうで遊びにいったこともありました。

そんなこんなでしたが、皆無事に卒業してから暫くは交流はありませんでした。そして10年程後の30歳代に、なにがきっかけだったのかは忘れましたが、池田さんとは連絡がとれて再会を果たしました。同窓かつ学友ということもありますが、実家が数百bほどの距離の同郷でしたのでハナシも合ったのだと思います。その後は年賀状のやり取りの他にも、40代50代と10年に一度くらいの頻度でお会いする機会もありました。特に50代半ばからは同じ名古屋での単身赴任が数年間かぶったのと、現在の住まいが、池田=千葉市/大隅=横浜市と比較的近いためか、最近の数年は均すと年一くらいで顔を会わせるようになりました。

そうこうしているうちに、昨年夏にテレビを何気なく観ていたところ、真鶴の海に関することが特集された番組が放映されていて、番組内案内役が「青木さん」という町役場か漁協の広報担当カワユイ女子。そこで私はハタッと先輩の青木(おじいさん)のことを思い出し、きっかけが多少不純ではありましたが、同窓会名簿に記載されていた電話番号をたよりに唐突に連絡を取ってみた次第です。
遅ればせながら半世紀前にお世話になりましたのお礼方々、池田さん共々お会いしたいとの意向を伝えたところ快諾して頂きました。ということで昨年の秋には真鶴で歓待を受け、半世紀分の話しこみは長時間に及び、大々久しぶりの旧交が復活したわけです。そして旧交温め及び新交構築第2弾として早春の伊豆を訪れる、銘打って「三世代ツアー」を催行することになりました。

前置きが誠に長くなりましたが、次回の投稿では旅の様子をアップします。
今回の画像は、神奈川の秀峰「大山」からの真鶴半島の眺めと、半島先端の景勝地「三ツ石海岸」。ちなみに、青木さんは外航船航海士を辞められてから、こちらの海で長らく定置網業と遊魚船業を営まれていましたが、最近は現場を離れて漁協の要職に専念されています。
真鶴の様子はこちら→http://www.manazuru.net/

   田中三郎  2015年12月23日(水) 14:28
陸に上がった河童さん
私は河童さんの1年前に機船「青雲丸」帆船「日本丸」での実習でしたが、今でもあの頃の思い出に包まれながら、白菊の歌・海のロマンスを口ずさんでいます。同窓会HPで河童さんの投稿を目にしましたので、あまりの懐かしさから池田俊夫さんに電話をし6月の再会を約束しあいました。

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